白磁
白磁には、独特のつややかな素材の美しさがあります。しっとりとした釉薬(ゆうやく)や、きらきらと光沢のある釉薬、すこし青みがかった釉薬など、表面をおおう釉薬によって同じ白磁にも違いがあることがわかります。また、装飾がないので形の美しさが勝負です。
日本磁器の発祥の地とうたわれる有田で磁器の生産が始まったのは17世紀の初頭と考えられています。まず、現在の有田の西側の地区で陶器と磁器を一緒に焼く窯が現れました。その後磁器専門の生産地となり、江戸時代を通じて展開しました。その重要な原料供給地であったのが泉山です。
磁器を焼成する技術をもたらしたのは文禄慶長の役でこの地に連れてこられた朝鮮半島からの陶工でした。技術があっても原材料がなければ今の有田はなかったことでしょう。泉山の陶石は他にまぜものをしなくても単味(たんみ)で磁器となる恵まれた天然の原料でした。現在ではさらに白く薄く焼きあがる天草陶石を使用しており、泉山の陶石は残念ながらほとんど有田では使用されていませんが有田で磁器が生れてから約400年の間、この町を支えてきた大切な資源なのです。
染付
白い磁器に青い顔料で文様を描く技術は元時代の中国で始まりました。13世紀の末から14世紀の初頭頃に始まったと考えられています。これを日本では「染付」(そめつけ)、中国では「青華」(せいか)といいます。磁器が製作できる約1300度もの高温で、安定した発色を保つ絵の具は多くはありません。ほとんど唯一、天然顔料の中では酸化コバルトを主成分とした顔料「呉須(ごす)」が釉薬のしたで美しく青色に発色するのです。素焼の素地に呉須で絵を描き、釉薬をかけて高温で焼成すると、呉須は釉薬の中に拡散し、その部分は青ガラスのようになります。この青ガラスの部分が文様としてあらわされるのです。
有田では生産が始まった最初に磁器から染付の製品を焼成しています。これは、その当時大量に日本に輸入されていた中国磁器が影響しています。文様として中国の風景を描いた山水文や、中国の人物が描かれた唐人文のものが多く見られるのも中国磁器の影響といえます。しかし、江戸時代には有田独特の染付文様が展開しました。現在では、そうした和風の染付文様の製品が見直されています。
青磁
釉薬に微量の鉄分(1〜2%)があると、湯薬は緑色に発色します。このような磁器は緑色なのですが、緑磁ではなく青磁といいます。青磁が生れたものも中国でした。緑色のやきものは、翡翠(ひすい)や空の美しさにたとえられ、高く評価されてきました。
色調にはさまざまなものがあり、青みがつよいものもあれば緑がつよいものもあり、また、茶色っぽく、およそ青くないものもあります。また、貫入という釉薬のヒビがはいるタイプもあり、その亀裂が景色(けしき)として喜ばれることもあります。
このように、一口に青磁といってもさまざまな釉と素地によって創作の幅があり、たいへん奥が深い玄人好みの陶磁器とみなされているのです。
有田でも初期のころから青磁は生産されてきました。全面に青磁釉をかける製品はもちろんですが、染付けと併用した青磁もあることが知られています.また、青磁の製品に上絵をつけた製品や、褐釉や瑠璃釉などの他の色の釉薬をかけわけて変化をつけている製品も見られます。
色絵
釉薬をかけて約1300度もの高温で焼成した製品に、さらにさまざまな色で絵を描き、再び800度ほどの温度で焼き付けたものを色絵と呼びます。赤が代表的な色であるせいか、有田では赤絵とも呼ばれます。顔料はさまざまな金属化合物です。主成分となる金属には、たとえば銅(青、緑)、鉄(赤、黄色、緑、黒)、マンガン(紫)、コバルト(青)、金(金色)、銀(銀色)などがあります。これらにガラス質の材料を混ぜて、釉薬の上に温度を加えて定着させれいるのが色絵なのです。
色絵は、有田では、染付や青磁の技術からやや遅れて1640年代に始まりました。その後、この特別な技術者を一ヶ所にまとめて保護管理するためか、寛文年間(1661〜72年)には、赤江町という地区が有田に誕生したと考えられます。現在の、今右衛門や郵便局がある地域です。ここに赤絵の技術者が居住していたのでした。
柿右衛門様式や古伊万里金襴手様式など有田の代表的な様式はこの色絵の技法によるものです。色絵の展開があり田の製品の幅を広げているといえます。
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