<有田の新旧工防>![]() 明治国家は1セントの外貨の手持ちなしに成功した国家でしたから、維新後対等な貿易を行って一日でも早く国力をつけなければなりませんでした。維新後は佐賀藩という後ろ盾こそなくなりましたが、世界各国で開催された万国博覧会(注(5))に出品したり、有田からも渡航することで海外の嗜好をつかんだりしました。また、国内の勧業博覧会などにも積極的に出品しました。そのような動きとともに、明治6年(1873)には『陶業盟約』が窯焼の間で結ばれました。これは藩の統制がなくなった後、有田焼の生命である泉山の陶石が自由勝手に採掘され販売されては有田はたちまち衰退するという心配から結ばれたものでした。 しかし、明治23年3月に有田町会が泉山磁石場(通商石場)を町の基本財産とすることを決議したことから石場騒動が起こり、以後4年間にわたって町を2分する事件となりました。この事件は明治26年5月、有田町、新村、曲川村、大山村、大川内村の1町4カ村で組合を作り、有田町長を管理者として運営することでようやく落着きました。 <有田の近代化> ![]() その後昭和の時代入り、昭和6年有田焼見本市協会主催の見本市が全国で始めて、有田小学校を会場として行われました。この開催にこぎつけるまでは窯元、商人の思惑が異なって何度も挫折しそうになりましたし、出席者を招待しての批評会では有田焼の現状について辛辣な意見が出されました。しかし、それらを糧として今日につなげていくたくましさが有田にはありました。 昭和12年、蘆溝橋で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争が始まり、同13年国家総動員法が交付され、次第に戦争が拡大していきました。 戦争中には有田焼の生産は軍需に限られるようになり、兵器生産のため民間には出まわらなくなった金属類の代用品生産が主となりました。鍋・釜から洗面器、水筒、湯たんぽ、ぼたんなどから、敗色が濃くなった戦争末期には手榴弾や貨幣に変わり陶貨の試作まで行うようになりました。働きである男性が出征した後を学生・生徒を労働力として工場に動員する体制がとられ、女子勤労報国隊が工場で働く姿も見られるようになりました。しかし、戦闘中も有田焼の技法を絶やしてはならないという考えから、(技)、(芸)という制度ができ、指定を受けた窯元や陶芸家は物資を優先して入手したり、技術を持つ職人を雇うことができました。 昭和20年の敗戦後、やっと立ち直りかけたときに有田を襲ったのが俗にいう「23水」でした。昭和23年9月11日夜半の豪雨で大谷ため池が決壊したのが惨事の引き金でした。家屋や橋の流出とともに全町で24人の死者をだしました。窯業界が輸出品によって敗戦の沈滞から立ち直ろうとしていた矢先だけに大きな痛手でした。その後も昭和42年に豪雨の被害を受けました。このような自然災害だけでなく、有田の歴史には国内外の経済状況も大きく影響してきました。しかし歴史・伝統というのは一朝一夕には作り上げることはできません。 ![]() 注(5) ●万国博覧会 佐賀藩として、有田焼を出品したのは慶応3年のパリ博が最初。その後、明治6年のオーストラリア・ウィーン、同9年のアメリカ・フィラデルフィア、同16年オランダ・アムステルダムなど、各地の万博に出品した。 注(6) ●陶磁器品評会 明治29年3月1日〜5日まで本幸平・桂雲寺で開催された、有田五十二会陶磁品評会。五十二会の会頭は前田正名(鹿児島出身・元農商務次官、貴族院議員)で有田五十二会の代表者は9代深川左衛門と田代呈一。 ●「有田町史全10巻・別巻1巻」 有田焼創業350年祭事業の一環として創刊され、陶業・政治社会・古窯など、分野ごとに編集され、有田の歴史ひいては日本の陶磁紙を学ぶには最適の書物。 ●「皿山何故なに」 子供たちを対象とし、50の疑問に対して、答える形式で構成され、有田の入門書として愛用されている。 ●「おんなの有田皿山さんぽ史」 有田の自然・歴史・人物・焼き物などに関するエッセイ集。執筆者は芥川賞作家の村田喜代子さんをはじめ、すべて女性によるもの。 ●「町内古窯跡群詳細分布調査報告書第1〜第11集」 昭和62年度から10年間実施してきた町内古窯跡群詳細分布調査報告しょう。 |