【人々が創った有田の歴史】



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皿山の歴史をたどって

<有田のあけぼの>
 佐賀と聞いてその場所がすぐさま思い浮かばなくても、「有田焼の有田」と言えば思い当たる人はたくさんいらっしゃるでしょう。そうです、この有田はずっと焼き物で生きてきた町で、焼き物の歴史が有田の歴史でもあるのです。ではその歴史はいつ始まったのでしょうか。
 日本の歴史の中でも大きな事件があった、豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬申・丁酉の倭乱)が、有田の始まりに大きく関わっています。ただ朝鮮半島の人々にとっては大変不幸な事件であったということを忘れてはいけません。そのことをふまえて、有田の歴史をたどってみましょう。
 別名「焼き物戦争」とも言われている文禄・慶長の役で、各地の大名は朝鮮半島から引き上げてくる際競って技術者や学者、陶工(注(1))たちを日本に連れかえりました。この佐賀では武雄邑(ゆう)に深海宗伝、百婆仙の一族や多久邑に預けられた李某(李参平という名は古文書の中に出てくる李某と参平という名を後世の研究者が合わせたもの・後の日本名金ヶ江三兵衛)らがそれぞれの良質の陶土を求めて領内を捜索しながら作陶を行っていました。当時の有田は西の方を中心に、土ものの陶器を焼いていました。そこへ朝鮮から連れてこられた陶工.李参平がやってきて泉山の地に良質な陶石を発見しました。それから有田は焼き物作りに必要な水、燃料となる木などが豊富であったということが幸いして、各地から人が集まり焼き物生産が活発になってきました。しかし、ここで大きな問題が起こったのです。それは窯を焼くための燃料として多量の薪を必要とし、そのため周辺の山々の木が倒され、山が荒れてしまったのです。佐賀藩には一つの水源涵養と火災防火の見地から、もう一つには藩の財産として山林の保護を重視していましたので、山林保護を至上命令とし、826人の日本人陶工を追放(注(2))したのでした。その際13箇所に窯場の統合も行われ、陶器窯は廃止されて磁器窯のみが残されたものと思われます。

古窯跡 <有田の隆盛>
 その後、伊万里の商人や初代皿山代官(注(3))山本神右衛門らの奮闘があって、焼き物からあがる運上銀(雑税)が飛躍的に伸び、佐賀藩は有田の陶業を藩の産業として取り上げ、その経営に乗り出しました。同じころ、酒井田喜三右衛門が赤絵付けに成功し、その製品を長崎に持参したものが市場に出始めました。さらに有田にとって幸運だったのは、それまで中国との貿易を主としていたオランダ連合東インド会社(注(4))が、中国国内の混乱から日本との貿易に方向転換を行い、そのため長崎・出島を通じて肥前有田の焼き物が海外貿易の商品として取扱われるようになったことでしょう。ことはすべて人と時と運の三つがジャストミートしたときに大きく飛躍するもので、このころの有田がまさに「その時」でした。 酒井田柿右衛門家文書「覚」 焼き物の取引額の増加に並行して、出島を通して中国から焼き物顔料(絵の具)の買い入れも増えてきました。この当時の貿易はオランダ船以外に中国船によるものも多く、公式には2,210,840個にも及び、さらには脇荷(商館職員や欄船の乗員らの個人の売買荷物)などを推定して約700万個以上の焼き物が輸出されたといわれます。
 でも18世紀中頃には中国製品と比較した際の品質と価格の問題、当時の江戸幕府による貿易の制限、国内の物価の高騰など時代の流れの中で、有田の貿易も下火になってきました。しかし佐賀藩・鍋島家の御用窯の製品の確立、伊万里の港を通じて国内への流通、など“伊万里焼”(有田で焼いたものを伊万里港から船で出していたのでこう呼ばれました)としての有田の焼き物は国内でも比類なきものとしての位置を占めるようになりました。その後、有田の歴史の中で最も大きな災害である文政11年(1828)の大火で、町は壊滅的な被害を受けました。西日本を襲った台風の風にあおられ、岩谷川内から出荷した火は瞬く間に有田の谷底を走り抜け、多くの人命と家屋を奪ったのでした。この時の被害や人々の様子を伝えるものに上幸平の「大地蔵」さんや、各地に残る古文書などがあります。さらにこの時から約30年後見事に復興した有田を見ることができます。それは「安政六年 松浦郡有田郷図」という古地図です。街並みや道筋、川、背後の山々など今でもこの地図を片手に歩けるほどの精巧さを持ち、今に残る町並みがそのまま描かれているような、懐かしさを感じさせるものです。町並みに背後に点在する登り窯、皿山を治めていた皿山代官所、高札が建てられた札の辻など、そのままタイムスリップしそうな皿山が描かれています。
 
安政6年 松浦郡有田郷図(佐賀県立図書館所蔵)


注(1) ●技術者や学者、陶工
鍋島直茂(のち佐賀藩祖)は、「細工師、縫官、手のきく女」や儒物などを連れて帰国している。

注(2) ●日本人陶工の追放
山林保護を目的として、いったんは追放された運上銀(租税)が減少し藩の財政にも響くということで、一部の日本人陶工を陶業に復帰させ、運上銀の増収を図った。

注(3) ●皿山代官
皿山というのは、焼物をつくる所という意味で、白川にあった皿山代官所では佐賀本藩から赴任した侍が租税の徴収や陶磁器生産関係の他に犯罪人の取締りや逮捕などの仕事を行った。
初代皿山代官の山本神右衛門から最後の百武作兼貞までの224年間に現在確認できているのは42人の代官である。

注(4) ●オランダ連合東インド会社
慶長7年(1602)に設立された貿易会社。国から東洋貿易の独占権を与えられ、現在のインドネシアのジャカルタに拠点を置き、アジア各地の支店を通じてアジアの陶磁器、香辛料、繊維などヨーロッパに運び、一方でアジアの植民地政策を行った。
有田焼輸出の窓口となった長崎商館はいわば日本支店。



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