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有田の幸平(こうびら)に桂雲寺(けいうんじ)というお寺があります。最初の品評会はここで開かれました。会場には赤いじゅうたんを敷いて珍しい製品がズラリと並び、大勢の見物の人が来てにぎわいました。現在のように商品を売ることを思いついたのは、当時の有田町青年会のリーダー深川六助です。大正4年陶器店に呼びかけ、等外品の蔵ざらえ大売り出しをはじめます。最初はあまり乗り気でなかった陶器店の人たちをリードしたのが青年会。客寄せのために福引きをしたり、謡曲会、短歌会、俳句会、碁将棋会、スポーツ大会と盛りだくさんの催しをしたり。ずいぶんとにぎやかだったことでしょうね。ふだんは小売りしていなかった有田の町で皿1枚、茶わん1個から売ってもらえるのですから、この蔵ざらえはあっという間に評判になります。しかも安い。回を追うごとにお客さんは増えました。といっても店が並んだのは上有田駅から赤絵町のあたりまでに100店ほど。現在の陶器市にくらべれば、ほんとうにささやかなものです。それでも、有田の商人にとっては、蔵のなかで眠っている半端物などを売りさばいてしまうチャンス。いつの間にか、品評会よりも蔵ざらえの方が盛んになっていきました。どの店も、陶器市が近づくと残業して売り出しの準備をしました。子供たちの活躍も見逃せません。まず、蔵から出してきた半端物などの汚れを落とし、きれいに洗うのは子供の役目。陶器市の日は、ざるに入れた茶わんや皿をいっしょうけんめいに売る子供の姿をあちこちで見かけたものです。 もちろん大人だって負けていません。ひとりでも多くの人に来てもらえるように、宣伝にも力を入れました。たくさん買ってくれたお客さんには交通費をあげたり、駅まで無料で荷物を運んだり。蓄音機のラッパをメガホン代わりに客を呼び込むユーモラスな姿もありました。そのころのお客さんたちの交通機関はほとんどが国鉄。夕方の駅では、列車の窓から大きな荷物を押し込む風景が見られました。買う人も、売る人もけんめいだったからこそ、陶器市は盛んになっていったのでしょう。せっかく活気づいた陶器市も、昭和17年からは戦争のため中断します。その間の有田では、主に防衛食の容器や呂号兵器と呼ばれるロケットの部品やロケット用燃料の容器などをつくっていたそうです。戦後、昭和23年に陶器市は再開しました。この年、猿川の鉄砲水で大勢の人が亡くなるという悲しいでき事がありましたが、陶器市の方は、以来年々盛んになっていきます。もちろん商人たちも宣伝に余念がありません。陶器市に初日には1番列車で鳥栖まで出かけてビラを配ったり、配達のサービスをしたり。上有田駅前に火鉢をピラミッドのように積み上げて、みんなをたいそう驚かせました。おかげで人出もどんどん増えます。昭和39年からは陶器市のお買物団体列車が走り、全国各地から貸切りバスで買物に来るようになりました。昭和45年は大阪で万国博覧会が開かれた年。有田では万博に対抗して、いくつものイベントを企画します。役場前のちろりん広場ではゴーゴー大会、ミス陶器市のパレード、お祭りのようなにぎわいに36万人の人が集まりました。
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